丁子屋

丁子屋の紬

紬で、和服をもっと身近に【後編】

昔の人の言葉で、「春結城に秋大島」という言葉があります。
暖かい真綿の結城紬を春に、絹織物のツルリとした感触の大島を秋に着るというのは、しっくりこないような気がしていました。洋服では秋に厚手のセーター、春に薄いセーターを着る感覚があるからでしょう。
ところが、実際に着てみると秋はまだ暑さの残る時もあるので、大島の感触が気持ちいいのです。一方、春は日差しが明るいわりに底冷えが厳しいので、結城紬が暖かくていいのです。
やはり、昔の人の言う通りでした。

 

【本場結城紬】

2010年ユネスコ無形文化遺産に登録されました。本場結城紬は、真綿を手で紡ぎだします。空気をたっぷり含んだ真綿は、柔らかく、温かく、着る人の心を温めます。撚りのない糸で織る「平織」と、撚りをかけた糸で織る「縮織」があります。模様を構成する基本は、亀甲か十字。亀甲の数は絣の単位で、80,100,120,160,200と区分され、この数字は反物の幅に並ぶ数を示します。亀甲の数が多くなるほど、ひと粒の絣は小さくなります。つまり、亀甲の大きさは技術の難易度を表しています。

結城地方は、現在の栃木県と茨城県にまたがる鬼怒川沿いの地域です。古くから養蚕や織物が盛んで、「常陸絁(あしぎぬ)」として世に出て、やがて「常陸紬」の呼び名に変わります。鎌倉時代には質実堅牢さが武士に好まれて結城の産業となりました。この地を治めた結城氏が朝廷への献上品として紬を用いたため、「結城紬」の名になったといわれます。

江戸では無地や縞、幕末は十字絣、明治中期から単純な絣、大正に入って緯絣の導入に成功すると、男物から女物に進出。大正から、昭和初期は緯総絣が流行しました。明治後期に縮織が開発されると、絣模様の縮織は人気を博します。大正・昭和の戦前(30年代頃)までは縮織の生産が8〜9割でしたが、1956年に結城紬の平織が国の重要無形文化財に指定されると、平織が徐々に増加。現在は平織が主流で縮織は少量です。
人手不足により職人が減少傾向にある結城紬を丁子屋は支援し続けたいと思っています。

 

【大島紬】

奄美大島に伝わる伝統的な紬です。薄手なのに光沢があり、滑らかな風合いが特徴です。奄美大島、鹿児島市、宮崎県都城市と三つの産地があります。どの産地でも共通している定義は①絹100% ②先染め手織り ③平織 ④締機の手作業で絣を加工 ⑤手作業で絣合わせをして製織です。ただし、染め下地や縞格子に限っては機械織もあります。大島紬の糸は紬糸ではなく、撚りを弱くかけた本練絹撚糸を使います。テーチ木と泥染で糸を叩いてねじることを繰り返すと泥の微粒子で揉まれて糸がこなされます。この甘撚りの絹練糸と、泥染の工程を行うことで、薄手で光沢のある風合いとしなやかな手触りが生まれます。

奄美大島では、古くから養蚕と織物が行われ、東大寺正倉院の献物帳には「南島から褐色紬が献上された」との記録があり、これが源流と考えられます。江戸時代、奄美大島は薩摩藩に支配されて、紬は黒糖とともに上納品として作られ、それが明治初期まで続きました。それまでは様々な植物で染められていましたが、車輪梅(テーチ木)と泥染に統一され、針で絣を合わせる調整法が考案されて、絣が鮮明に織り上がるようになりました。明治中期には需要が増加し、真綿からの手紬糸では生産が間に合わなくなり、練玉糸を導入します。地機から高機になり生産効率が向上しました。組合が設立され、製品検査を開始すると、品質も向上し、高級織物として広く知られるようになります。大正中期には練玉糸から本絹練糸へ転換して、光沢があり滑らかな生地質の大島紬が作られるようになり、今の原形を確立しました。昭和になると泥藍大島、色大島、草木染大島など多彩な製品が開発されて、今日に至ります。1975年には、伝統的工芸品に指定されています。

袷でも単衣感覚でお召し頂ける、身軽さがあります。帯との組み合わせ方であなたらしい大島紬を楽しんでいただきたいですね。
※「片ス」「一元」「マルキ」に関しては特集で触れたいと思います。

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